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千葉県の歴史2

飛鳥から平安時代まで

6世紀後半になると畿内では、前方後円墳は、姿を消し、古墳は小型化していきます。
7世紀になると仏教寺院が建立されるようになりますが、東国では、7世紀はじめまで前方後円墳が
築造されていました。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町及び成田市にある竜角寺古墳群
(古墳総数は111-124基)が確認されています。
遺跡は、印旛沼の東岸にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されています。
竜角寺古墳群は5世紀に始まったとされ、7世紀末までの三百年間、複数の古墳と寺院が築造されたもので、
東国における墳墓(古墳から寺院)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名です。
浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は七世紀中葉近くの時期におよび、墳丘長が78mで、
全国的に見ても最後の大型前方後円墳といわれます。
この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、
終末期の方墳としては、日本最大です。
そして、岩屋古墳の北北西約1㎞の場所には龍角寺跡があります。
この寺院は、東日本最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院として知られ、
現在は重要文化財となっているが、一時国宝となった時期もあるのです。
調査によると山田寺式の瓦が葺かれ、三重塔と金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっており、
同地の有力者が大和王権の豪族と結び仏教を広めようとしたのではないかと考えられています。
また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、『加刀利』などの文字が描かれた瓦が出土しています。
その文字瓦には『朝布』『赤加賀』『玉作』などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類があるのです。
このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、
関東での文字の使用が奈良時代以前にさかのぼることを証明する貴重な資料のひとつと言われています。

大化の改新後、畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となり、さらに718年に上総国から安房国が
分離し三国となりました。
なお、一時、安房国は再び上総国に編入されたが、757年に再び分裂された。

地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、東海道の正式なルートが
相模国から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためで、
日本書紀には日本武尊の武勇伝でも上総国に上陸する場面が記述されています。
日本国内にあった六十八の各国は国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から
下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国、安房国は中国と延喜式には
記されているのです。
また、上総国は大国の中でも親王が国司を務める3つの親王任国の一つとなっており、平高望、
良兼や菅原孝標がそうであったように国府の実質的長官は上総介が握っていました。

平安時代中期、都では、藤原氏が隆盛に向かう頃、県域では、中央から派遣された国司などの
(任期期間が過ぎた)役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生していきます。
特に高望王の子孫である桓武平氏系の氏族が勢いをふるったが、平安時代の平将門、ついで平忠常が反乱を起こし、
房総三国は、一時「亡国」と言われるほど荒廃してしまいました(この時、朱雀天皇によって、
平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷をおこおなったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。

鎌倉から戦国時代まで

この荒廃の中で台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫の千葉氏(上総氏も含む)です。
千葉氏は、下総国千葉荘園を本拠とした豪族で、坂東八平氏の一つに数えられる名門氏族として
総州で栄えたと伝わっています。
千葉氏系の氏族としては、相馬氏 、武石氏、大須賀氏、国分氏 、東氏、葛西氏、椎名氏、臼井氏、
原氏、遠藤氏、円城寺、高城氏などの諸流がよく知られています。
このうち、相馬氏と高城氏、遠藤氏は明治維新まで存続することになります。

しかし、千葉氏もこの時期は、俗に言う私営田領主(在地領主)で、国司が交代するたびに荘園の認定を
得なければならない状態でした。
そのため、平氏政権の影響が地方にも及ぶ頃には、下総国司だった藤原親通によって官物未進
(租税滞納)を理由に相馬御厨や立花荘(東荘)が没収されるなど困難な状況に追い込まれていたのです。
千葉氏は、これらの荘園の回復のため、長期間奔走するが、懸命の努力にもかかわらず、源義朝を経て、
藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張し介入してきた常陸の佐竹義宗に奪われるなど平家方の親通が
土着する過程で、被害を受ける在地領主の一人にしか過ぎませんでした。
そのような困難な状況を打開する転機となったのが平安時代末期の鎌倉幕府創設への貢献だったのです。

1180年、石橋山の戦いに破れ、安房国へと落ち延びた源頼朝を、千葉氏をはじめとする総州の諸侯
(安西氏、葛西氏など)が支援がしたことによって、わずか1ヶ月で関東武士の恭順と結束を固め、
鎌倉幕府を築くための原動力となったことはよく知られています。
この功績によって千葉氏当主だった千葉常胤は、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、
総州の支配者としての確固たる地位を築くと共に、奥羽(後の奥州千葉氏)・九州(後の九州千葉氏)
にも所領が与えられ、一族の一部が移住、勢力が拡大することになります。

一方、上総氏は、頼朝の政権獲得の過程で、当主広常が謀殺され、領地も没収されてしまったため、
以後の歴史書や系図で不当に扱われてきたという経緯があるのです。

鎌倉時代前期には、千葉氏(上総の千葉常秀を除き)は、畠山氏や三浦氏のように北条氏とは争わず、
千葉常胤の嫡男太郎胤正が千葉宗家(千葉介家)、次郎師常が下総国相馬郡、三男胤盛が武石郷、
四郎胤信が大須賀保、五郎胤通が国分郷、六郎胤頼が東庄を本拠とし、世に千葉六党と称され最盛期を迎える。
鎌倉時代中期の蒙古来襲の際には、千葉氏も九州に所領を持っていたことから当主の頼胤、宗胤がそれぞれ、
文永の役、弘安の役に参加し戦功をあげました。

しかし、同時期から千葉介の継承をめぐり、千田胤貞と千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、
1333年に鎌倉幕府を打倒すると対立は表面化、それぞれ、足利高氏と新田義貞双方に属し、
1336年に胤貞が没するまで争いが繰り広げられました。
また、1365年の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の
筆頭家老の座を巡る原氏と円城寺氏の争いなど、千葉宗家・千葉六党・家臣(同族)間の対立や内紛が
後も絶えずに勃発します。

さらに室町時代になると関東では、鎌倉公方と室町幕府との対立が激化、関東管領の上杉氏
(藤原勧修寺家流)も加わった争いが相次ぎ、長い戦乱が続いた。現在の県域も巻き込まれ、
荒廃してしまいます。
この一連の戦いは、関東管領・鎌倉公方(古河公方)をはじめ、関東の諸氏の勢力が衰えさせました。
千葉氏も例外ではなく、1455年の享徳の乱の際には、一族の重鎮である馬加康胤を擁した重臣原胤房によって
千葉宗家が滅ぼされるなど、戦国時代には大きく勢力が衰退していました。
この状況に乗じ、戦国時代になると小田原の北条氏が関東各地を次々と支配下に置き台頭していきます。
千葉氏は、北条氏に従属し、安房を本拠とする里見氏や上杉氏との争いに巻き込まれていくのです。

一方、上総国では、上総武田氏が、安房国では、1440年の結城合戦に破れ、安房に上陸した里見義実が
領主だった安西氏を追放し台頭していきます。
里見氏は、戦国時代になると北条氏と房総の覇権を争うことになるのです。

安土桃山から江戸時代まで

1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、
千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまいました。
一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、北条氏滅亡後に徳川家康が駿河・遠江・
三河・甲斐・信濃の五カ国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分が
その支配下に入りました。
その後、引き続き安房を領有するが江戸時代はじめに起きた大久保長安事件の余波を受けて改易、
その後断絶することになります。

江戸幕府が開かれると、徳川家康が鷹狩りなどのため船橋、御茶屋、東金などに御殿を建造し、
御成街道も整備されました。
江戸に近いことから大きな大名家は置かれず、小大名領と旗本領・天領に細かく分割されます。
房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦が老中として
アメリカとの交渉役をつとめました。
また、下総関宿藩も著名ですね。
この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主の久世広周が同じく老中を務めました。
ちなみに下総国には、他に小栗原藩、高岡藩、小見川藩、多古藩、生実藩が、上総国には鶴牧藩、
請西藩、飯野藩、一宮藩、佐貫藩、久留里藩、大多喜藩が、安房国には勝山藩、船形藩、館山藩が
それぞれ置かれました。
また、明治維新に徳川家達の駿府移封に伴い移封した藩があり、廃藩置県まで続いていくことになります。

江戸前期には、房総最大の百姓一揆が佐倉藩で起こったが、この時に一揆の指導にあたった佐倉惣五郎は、
重税に苦しんむ農民を救おうとした『伝説的義民』として、芝居や歌舞伎の演目に描かれ、
庶民の尊敬を集めました。
しかし、小規模な領主が多かったこの地域では例外を除き、殆どの地域の場合、
このような大きな一揆がおきるのは稀で、多くの場合、税率も平均的な天領並か少し高いくらいで
恵まれた地域でありました。

江戸時代を通じて県域各地は、幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの
大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われます。
そのほかにも風土や立地に恵められていたことから薬草や農産物などの栽培所が設置され、
試験栽培なども行われました。
有名な話としては、飢饉対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の幕張村
(現千葉市花見川区)、上総国の九十九里浜の不動堂村(現九十九里町)において試験栽培が実施され、
1735年関東地方でも栽培であることを確認。
これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくったことは有名ですね。
一方、下総薬園台(現船橋市)では、朝鮮人参や黄蓮の栽培も試みられた。また、
江戸近郊に位置していたため、軍馬の養成のため小金牧・佐倉牧・嶺岡牧の3つの幕府直轄の牧が
設置されてました。
嶺岡牧では、徳川吉宗時代に、インド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)などが日本で
はじめて生産されています。
その牧の風景や様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所や江戸名所の一つに数えられ、
松尾芭蕉や小林一茶、歌川広重などの作品や紀行文にも登場します。

江戸時代中期になると江戸で人気を馳せた歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して
「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居が打ったことなどから成田参詣と呼ばれる個人参詣運動が
盛んになり、江戸から成田を結ぶ佐倉街道は人々で賑わい、宿場町や継立場などの交通設備も整備されていきます。

東京23区別家賃相場

  1. 千代田区
  2. 中央区
  3. 港区
  4. 新宿区
  5. 文京区
  6. 台東区
  7. 墨田区
  8. 江東区
  9. 品川区
  10. 目黒区
  11. 大田区
  12. 世田谷区
  13. 渋谷区
  14. 中野区
  15. 杉並区
  16. 豊島区
  17. 北区
  18. 荒川区
  19. 板橋区
  20. 練馬区
  21. 足立区
  22. 葛飾区
  23. 江戸川区

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