
縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られています。
縄文時代の貝塚は日本各地に約1500ヶ所を数え、関東地方には、約1000ヶ所が集中しています。
特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600ヶ所が密集しており、千葉県の東京湾域、
利根川流域の台地には500ヵ所ほどの遺跡が見られます。
千葉市にある加曾利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曾利貝塚博物館が建っており、
発掘品のほか、野外施設で貝の推積状態を観察することが可能です。
関東では、関西より、百年遅れて紀元前2世紀から紀元前3世紀頃にかけて弥生時代となるが、
房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから俗に「黒潮文化」と呼ばれています。
県内では、成田市の荒海貝塚から縄文から弥生時代へ移り変わるころの籾殻痕がついた土器が
見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されます。
ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていません。
農耕社会にはいると、『ムラ』の形態が変化し、これまでの採集経済にかわり、生産経済が展開されていきます。
この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の
発掘で発見されているのです。
遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が
営まれていたと推測されます。
環濠集落は、政治的施設や生産工房を府置した、政治的軍事的な「城塞集落」で、
佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、前者の数十倍の規模で、陸橋・門柱・柵列や物見櫓が見つかっています。
また、環濠内には弥生墳丘墓や祭祀施設も備わっていたことがわかってきました。
弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡の環濠は消滅し、ムラの景観が一変します。
台地の北に大型住居を伴ったムラがつくられ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られました。
こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆します。
ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するようになり、
古墳時代に至るわけです。
房総半島は、『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命が
阿波から黒潮にのって渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地で、忌部(斎部)の一部の居住地には、
阿波の名をとって安房としたのが起源だとされています。
これら房総三国を一括する語が「吾妻」なのです。
記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、
元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性があります。
安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式がとられ、
忌部氏の氏神とされる安房大神(安房神社)は、8世紀前半までは、東国では鹿島神につぐ扱いで、
香取神を上まわっていたとされます。
又、『常陸国風土記』によれば、阿波忌部氏に続き神八井耳命の血を引く肥後国造の一族だった
多氏が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として鹿島神宮を建立したとされます。
なお、香取神宮もこの際に出雲の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとされています。
延喜式神名帳によると平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、
伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社のみなのです。
県内にある古墳時代初期の遺跡としては、市原市の神戸4号墳・5号墳をはじめ、
各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されています。
また、市原市の稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総における大和王権の影響力が見られます。
その勢力下にいつ頃入ったのかは明確ではないが、現在の研究では、前方後円墳が盛んに
築造されるようになった5世紀の半ばとする考えが通説で、国造制によって県域には、
十一の国造がおかれたと伝わっています。
県域は香取海周辺に集中する古墳郡の分布からもわかるように古来より、海上交通を通じて発達し、
東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、
1990年時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されます。
このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、
147m(周溝を含めると185m)、日本列島では、74番目の規模といわれますが、5世紀の古墳としては、
南関東で最大規模を誇るのです。
なお、遺跡の多くは、山(標高20m~30m程度の高台)側に多く分布しています。
これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、
県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」と
成っていたためで、この影響は、平安から鎌倉期まで続いたと考えられます。
この影響は、日本武尊に関する説話など各地の伝承や伝説などにも見受けられるのです。